
五輪の塔は行灯峰(あんどんほう)の中腹にあり、鎌倉時代から室町時代にかけて建立されたもので、当時この地方を支配していた益子氏の墓ではないかといわれている。
五輪塔群のすぐ北の隣接地には寺院(現在は大郷戸廃寺跡と呼ばれ、竹の子・ワラビの郷の場所)があり、すぐ東には茨城県大和村の雨引観音から岩瀬の富谷観音を通り、尾根伝いに大郷戸を抜け益子の西明寺や大羽の地蔵院に行ける道があった。
太平洋戦争後、食料増産のために行灯峰の中腹より下が農地解放となり開墾され畑地になった。その時も多くの五輪塔が発見され畑の土留めに使われが、昭和35年春の大雨による土砂崩れによっておびただしい数の五輪塔と火葬骨の入った瓶子(へいし)が姿を現した。そのうち五輪塔一基と瓶子は供養のため大字上山の普門寺に納められ、地元でも五輪塔5基を大郷戸廃寺跡の一角に、後に東の山裾に組み立てて供養を行った。しかしいくつかの五輪塔と瓶子が持ち去られ、残った五輪塔は再び畑の土留めに使われ、やがて土中に埋もれ、これらの畑は傾斜地で道も狭かったため、最近では耕作もされず荒れ地となってしまった。
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